about Imagosphere notes 2.0

「Imagosphere(日本語表記:映像圏)」渡邉大輔自身が作り出した造語であり、
二一世紀の現在、驚くほどの勢いでひとびとの日常生活のなかに
溢れかえりいくつにも複雑に枝分かれしながら広がっている
映像の世界の状況を捉えた言葉である。

これからDIDのウェブサイトで連載を始めることになりました。  この連載では、ぼくがそのおりおりに気になった「動画」や、それにまつわるさまざまなできごとを取り上げつつ、現在の映像文化やユースカルチャーの動きについて簡単に考えていきたいと思います。  そこでまず、いくつかの文脈を確認しておきましょう。  この連載のタイトルにもなっている「Imagosphere」という耳慣れない言葉について少し説明しておかなければなりません。これは、ぼくの作った造語です。いちおう、日本語表記では「映像圏」と書きます。この言葉は、二一世紀の現在、驚くほどの勢いでひとびとの日常生活のなかに溢れかえり、いくつにも複雑に枝分かれしながら広がっている映像の世界の状況をなるべくうまく捉えようと考えて作られたものです。誰もが肌身で知っているように、いまのぼくたちの暮らす世の中で、映像に接する機会は、もはや映画館のスクリーンや、テレビ画面、パソコンのディスプレイなどだけではありません。それは街角のデジタルサイネージ(電子広告)をはじめ、YouTubeやニコニコ動画、Ustreamといったいくつもの動画共有サイトやワンセグを通じて、スマートフォンやタブレットの液晶画面など、いたるところに散らばっています。また、昔であったらば、大型のビデオカメラを担いで撮影していた映像も、いまでは小型デジタルカメラや、携帯電話、スマートフォンのムービー録画機能を使ってずっと手軽に撮れるようになりました。それらのツールやメディアを通じて、ぼくたちはいつでもどこでも誰でも、膨大な映像に囲まれ、またそれらのなかからかつての「映画」や「テレビ番組」のようなはっきりとした輪郭をもった何らかの「作品っぽい」コンテンツさえじつに手軽に作り出し、観客(ユーザ)のあいだで大きな人気を獲得することも珍しくないでしょう。  さきほどのImagosphereという用語は、そのような現代の映像環境、「インターネットや携帯電話、監視キャメラなど、現在の情報ネットワーク社会がもたらす「イメージの氾濫状態」とでも呼ぶべき文化状況やひとびとのもつリアリティの総体」のことを指してぼくがつけたものなのです。  そして、ぼくは最近、この映像圏(Imagosphereという表記はわかりにくいので、以後、映像圏と呼びなおします)というコンセプトを幅広い話題や作品を交えて本格的に考えた『イメージの進行形――ソーシャル時代の映画と映像文化』という本を、人文書院という出版社から年末に出すことなっています。そのなかでは、たとえば、オーソン・ウェルズや岩井俊二といった有名な映画監督の映画のほかにも、それらと並べてニコニコ動画のMAD動画や「踊ってみた」動画、あるいはTwitterなどといった現在の「ソーシャルメディア」とそれと一体となって生まれた新しい映像コンテンツも一緒に論じています。  つまり、この「ネット動画」という新しい映像コンテンツに注目し、そのなかから注目すべき「作家」や「作品」を送り出していこうと試みるDIDではじめようとしている連載は、やはりそうした新しい映像コンテンツがもっているさまざまな変化や注目すべき点について考えていきたいと思っているわけです。 また、タイトルについている「2.0」というのは、「Web2.0」という、もう七、八年くらい前にネット業界で流行ったIT用語からきています。細かい説明は省いてざっくりいえば、「1.0」の状態よりバージョンが新しくなった状態、つまり「より進んだ状態」ということです。したがって、この連載は「より進んだ映像圏のありよう」について考えていければいいなあという願いをこめています。 とはいっても、『イメージの進行形』では批評書らしく、さまざまな難解な理論や歴史的な問題を深く扱って、いろいろとこみいったことを書きましたが、ここではなるべく同じ問題をさくっとわかりやすく書いていくことを目指したいと思っています。しかも、ここではそういうふうに、わりと楽な気持ちでその都度のテーマや話題を探して書いていこうと思っているので、時にどんどん話が飛んだり、次の回ではまったく違う話題を書き出すこともあると思いますが、ご理解いただければと思います。

 さて、それでは、第一回の今回は、現代の映像(動画)におけるモティーフのありかたについて考えてみることにしましょう。そのことでぼくが注目したいのが、「アイドル」です。  そう、あのここ数年、若者文化のあいだで大きな盛り上がりを見せているあのアイドルです。  たとえば、DIDのウェブサイトにアップされている現役高校生の動画作者・カトウユウキくんの撮る『ぼくのおさんぽ』という日記ふうドキュメンタリー動画にも、今年の九月に日本中を沸かせたAKB48の前田敦子の卒業ライブが開催される秋葉原の街の様子が写されていました。また、同じDIDのサイトでも公開されている『AKIHABARA GYPSY』の動画で撮影されている、秋葉原の街頭を背に、さまざまなブランドファッションをまとった女の子たちの幻惑的な立ち姿なども、どこか「アイドル的」な印象を思わせます。  とにもかくにも、この国民的女性アイドルグループであるAKB48をはじめ、ももいろクローバーZ、スマイレージ、私立恵比寿中学など、ここ数年、女性アイドルグループがいくつも台頭し、世はまさに「アイドル戦国時代」の様相です。ここに、ジャニーズ系の男性アイドルグループや韓流アイドル(K-Pop)、それからご当地アイドルや地下アイドルなどインディーズベースのものまで含めると、その数は膨大になります。当然のことながら、そうしたアイドルたちを対象にした映画作品(アイドル映画)やテレビのバラエティ番組、あるいは動画サイトの映像断片にいたるまで、映画や映像、動画の世界にもアイドルの姿は溢れています。  現代において、なぜこんなにもアイドルはブームなのでしょうか? そして、映像や動画の世界でも、なぜアイドルはこんなにも求められるのでしょうか? このことについては、それこそアイドルライターやら芸能評論家やら、社会学者やらコラムニストやらといったひとたちがぼくなんかよりも、ずっと詳しく、面白く、また有意義な情報や分析を行うことができると思います。しかし、その問題について現代の映像の世界に絡めながら、ぼくなりにその答えについて考えてみることにしましょう。  現在、「アイドル」――少しいいかえれば、ひとびとの注目をひくような特徴や、美しさ、かわいさ、オーラ……なんでもいいのですが、そういう要素を身にまとった人物を主なモティーフや題材に据える映像が目につく理由は、ひとつには、ぼくがさきほどいった映像圏という現代の独特の映像環境の特性が大きくかかわっているのではないかということです。つまり、もっと具体的にいえば、いまのぼくたちを取り巻く映像の世界が極端に多様化していて、複雑になっているということです。  ご存知のように、いま、映像が映画館のスクリーンからテレビ画面、携帯やスマートフォンの液晶画面、電車や街中の電子広告にいたるまで、いたるところにあります。また、たとえば、ふつうならば映画館のスクリーンで上映されている映画の映像にしても、テレビで放映されたり、あるいはスマホのディスプレイで鑑賞したりできるなど、同じ映像(作品)でも多様な見方ができるようになっています。  おそらく、かつては映像のあり方はいまとは違い、もっと単純で、はっきりしていたといえるでしょう。たとえば、映画のフィルムは映画館や町の公民館などの公共施設でしか観ることのできないものでしたし、テレビ番組であれば、もちろん、テレビのブラウン管を通してしか観れませんでしたよね。動いていない写真にしても現像したものをアルバムなどに入れて眺めるというふうに見られていたと思います。あるいは、それは個々の映像作品の内容(描かれ方)についてもいえるでしょう。『イメージの進行形』のなかでも触れましたが、かつての映画はいまよりも、何らかの「物語」を効率的で機能的に物語ることに主眼を置いて作られていたと、よくいわれます。細かい理由は省きますが、そこでは映画は起承転結がはっきりしていて、わかりやすく、明快な内容をもつことが大事だとされていました(これを専門的な言葉では映画の「古典的システム」などと呼びます)。  そうした昔ながらの状態を較べると、いまの映画や映像はやはりはるかに複雑で多様な存在になっていることがわかります。いまや「映像」はそれを枠づける輪郭があいまいになり、はっきりとした形をもたず、どこへともなく漂流しているようにも思えるのです。  何がいいたいか、おわかりでしょうか。そうです。そういう現在の混迷し、極端に複雑になり、どこに目を集中して向ければいいのかが不鮮明になっている映像環境のなかで、「ここに注目してください」とシグナルを発し、わたしたちの感情や意識を効率よくまとめあげてくれる存在として、まさに「アイドル的」なイメージが、いま、求められているのではないでしょうか。いってみれば、現在の映像環境(映像圏)において、アイドル的存在とは行くあてもなく広大な海に漂う小舟を目的の港に結びつける、「シグナル」や「錨」のような役割を果たしているといえるかもしれません。  ようは、現代の映像環境を的確にまとめあげ、ひとびとの注目を集めるようなコンテンツを作りたいのであれば、この映像における「アイドル的存在」(これは別に現実の「アイドル」でなくともいいわけですが)をいかに造型し、適材適所に配置するかという才能が賭けられていくのだと思われます。  じつは、こういう技法といいますかセンスというのは、何も映画や映像に限らず、何もかもが多様になり、複雑になった現代社会や文化のなかで、どこでも求められてきているのだともいえます。このことを難しい思想の世界では、ときに「準‐対象物」などと読んだりもするのですが、それはまあ、よいでしょう。  さて、いまの映像環境では本質的な複雑さや多様さを的確にまとめあげ、ひとびとの注意や想像力をひくために、一種の「アイドル的存在」が必要になるとして、それが具体的にどういうあり方で働いているのか、次回はそのことについてもう少し踏み込んで書くことにします。

渡邉大輔
1982年生まれ
映画史研究者・批評家
現在、日本大学芸術学部非常勤講師
近刊共著に『ソーシャル・ドキュメンタリー』『21世紀探偵小説』
その他の共著に『ゼロ年代+の映画』『日本映画史叢書15 日本映画の誕生』などがある
初の単著『イメージの進行形』(人文書院)を今秋刊行予定
Blog : http://d.hatena.ne.jp/daisukewatanabe1982/
Twitter : @diesuke_w

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